第1巻 寛延己巳2年〜寛延庚午3年 松平氏前橋入封にともなう城郭の修復。利根川の洪水による川欠けによって本丸郭の御殿危険となり、その移転工事に迫られていた。 姫路を去るにあたって莫大な借財を抱えていたことから、城下商人からの才覚金調達に追われる。 |
第2巻 寛延辛未4年〜宝暦壬申2年6月 藩主朝矩の前橋初入城で前橋藩は松平家の時代を迎える。 |
第3巻 宝暦壬申2年7月〜宝暦甲戌4年4月 広瀬川全線にわたり通船が始まる。莫大な借財に対する商人吉田中兵衛からの献金、市商人による城下町の活性化、藩財政難により家中への倹約令布達。 |
第4巻 宝暦甲戌4年5月〜宝暦丙子6年4月 倹約令は更に厳しく、給料の引き下げ、衣類・食事についても制限し処分にまでも及んでいる。 |
第5巻 宝暦丙子6年5月〜宝暦戌寅8年4月 家臣の多い百軒町の大火により小役人など足軽屋敷342軒の焼失や放火が続出した。また、利根川の洪水により城内も被害を受け災難の年であった。 |
第6巻 宝暦戌寅8年5月〜宝暦庚辰10年4月 「祇園祭礼」の城中への引き渡しの記述がある。午頭天王を祭る祇園祭りは、江戸時代最も賑やかな祭礼行事で、各町ごとに屋台が繰り出し、御輿は城内へまで繰り込み、宝暦時代の最盛期を伺うことができる。第17巻にも記述。 |
第7巻 宝暦庚辰10年5月〜宝暦壬午12年6月 第10代将軍家治が就任する。また、江戸の大火により増上寺、芝明神の焼失、前橋城下でも田町の大火で侍屋敷の焼失、百軒町の349軒の焼失などの記録がある。 |
第8巻 宝暦壬午12年7月〜宝暦甲申14年5月 前橋領内の寺社に対し将軍家からの朱印状の授受があり、その様子が記されている。また、この頃から前橋城川欠けに伴う幕府の見分が始まり、4年後に移城が許可されている。 |
第9巻 宝暦甲申14年6月〜明和乙酉2年12月 宝暦から明和に移り、病気回復・安産・五穀豊穣などを願う祈祷が盛んに行われた。また朝鮮人参が品不足となり人参座の設置が認められ、この人参の服用により若殿様(後の直恒)の病気が全快したとある。 |
第10巻 明和丙戌3年正月〜明和丁亥4年8月 城下町の大火が記されている。この時の被災者書きによると侍屋敷8軒・給人屋敷51軒・足軽屋敷37軒・町家476軒・寺5ヶ寺とあり、この大火災復興のため、各町内にある古家・空家を領民の住居にあてるなど復興に努めた。 |
第11巻 明和丁亥4年9月〜明和己丑6年12月 領主朝矩は前橋城崩壊のため川越城に移城した。その後まもなく病状悪化のため31歳で逝去。次男直恒(7歳)が15万石を継承、第6代領主となる。百軒町火災、足軽長屋9棟38軒が焼失した。 |
第12巻 明和庚寅7年〜安永乙未4年 明和4年川越移城が幕府より許可され、明和7年に前橋は川越藩の前橋分領となり、前橋町方は川越藩町方奉行の管下の陣屋支配となった。また、明和7年の大火災により411軒が焼失、明和8年には794軒が類焼した(一覧表掲載)。 |
第13巻 安永丙申5年〜天明甲辰4年閏正月 安永8年に続き9年にも大火災があり482軒が焼失した。特にこの巻では、天明3年の浅間山大噴火の状況が詳細に記録されている。噴火による降灰で、蚕(桑)・野菜類は全滅に近く、溶岩・泥流により田畑・家屋・橋などは大きな被害を受け、死者も55人と記録されている。 |
第14巻 天明甲辰4年2月〜寛政庚戌2年6月 浅間山大噴火によって被害を受けた五料関所・福島番所・堤堰などの復旧工事を藩財政の厳しいことから幕府の財力によって実施することを再三懇願している。さらに、天明6年には長雨から豪雨となり、利根川が氾濫して用水や堰・人家など大きな被害(被害状況掲載)をもたらした。 |
第15巻 寛政庚戌2年8月〜享和辛酉元年 長引く飢饉や災害によって寛政期の財政は一層悪化した。財政の建て直しの対応策として講じられたのが寛政4年の義用金制度であった。この制度は、幕府が実施した郷倉制度(穀物を貯えて非常時に対応)を参考に一定の基金を運用し危急の際の財政負担を軽減し相互扶助を図ろうとするものであった。なお上泉郷倉の貯穀は、寛政2年から実施された。現在県指定史跡になっている郷倉は寛政8年に建築、安政5年瓦葺となったのである。また、領主直恒は、再三の災害にあたって山・川を鎮めるため、川は夏至、山は冬至に神を祭ったとあり、領民の安泰を願う気持ちを察することができる。 |
第16巻 享和壬戌2年〜文政壬午5年11月 文化・文政の時代で江戸庶民の文化は爛熟期であったが、反面領内の農村は天明3年の天災以来都市への人口流出が激しく次第に疲弊し、この復興と藩財政の立て直しのため文政の改革を図った。また、藩政では領主直恒が、文化7年(1810)正月18日49歳で逝去し、同年3月13日次男直温が家督・遺領を継承したが、直温も6年余の藩政の後、文化13年(1816)7月28日22歳で息を引きとり、同年8月27日には斎典が家督・遺領を継承し藩政を執行している。 |
第17巻 文政壬午5年12月〜文政乙酉8年12月 文政6年(1823)に永続制度が実施され、貧困家庭や火災時の家屋の再建、小児の養育資金等の貸付により領民の救済にあたった。また、前橋祇園祭礼も、領主が川越移城以来屋台や飾物等の負担ができなく、町分から村分になるところも出ており、祭礼は年々淋しさを増し、悪病や悪事が続き若者も悪所通いにふける状態になった。文政6年(1823)には、町並み建て直し繁栄のため、村分も復帰し祭礼に参加しているとある。(前橋祇園祭礼絵巻@宝暦3年(1753)A文政11年(1828)・2巻図書館所蔵) |
第18巻 文政丙戌9年正月〜文政己丑12年10月 幕府は文政10年治安強化のため「改革組合村」を設置し、公・私領別なく幕府の取締機構と直結させ、関東取締役出役の組をつくり、取締の機能を強化した。これに対し、川越藩では幕府主導の「改革組合村」の制度を固辞し、独自の領内取締体制を強化し、政治的画策を試みたのである。領主矩典が松平家の「家格」を保持したものと考える。また、領主斉典は生来儒学に熱心であり、稽古場の増設や藩士の教育なども積極的に行い、退廃した士風の刷新と藩体制の建て直しに力を注ぎ、文政10年(1827)川越に講学所を設置した。これが後の「博喩堂」である。 |
第19巻 文政庚寅13年正月〜天保癸巳4年12月 文政の終わりから天保期にかけての記録であり、この頃利根川を利用した材木の筏川下げが盛んとなり、利根川は輸送路として水運上重要な役割を果たすとともに、藩財政補填のための役割を担っている。また、文政13年には、藩財政の立直しをはかるため、正名講という積金制度を始めた。農村復興資金・藩の借入金担保として、藩財政上財源の収入源の役割を果たしていたが、引続く凶作によって天保9年に正名講は立ち消えとなった。なお、この巻では、寄合衆郡奉行として活躍した安井与佐衛門の功績が記録されている。特に、前橋地域の水利の修復や開発に尽力されたことを窺うことができる。 |
第20巻 天保甲午5年正月〜天保乙未6年12月 天保5年(1834)から6年(1835)の天保の飢饉が記されている。天保4年からの凶作により天保5年には社倉積穀制度の再興を図るが、度重なる凶作に貧民の生活は益々困難となる。このような状況の中で、天保2年に町在奉行安井与佐衛門が新政策として上申した「新建百姓政策」が天保5年に成果を表し新建百姓も110軒に達したとある(一覧表掲載)。前橋分領内では、天保6年紺屋町長屋の出火、玉村領川井村の大火による35軒が焼失し、122人が焼け出され町在奉行が救助に当たっている。また、管理が行き届かなかった御用林根利山の一万本払下げによって、村人たちの山稼ぎ・日雇等に寄与するとともに、藩財政にも効果を上げたと思われる。 |
第21巻 天保丙申7年正月〜天保戊戌9年3月 藩財政は一向に良くならず、天保7年の飢饉によって年貢収納が少なく借財は増すばかりで、この窮状を幕府に対しても訴えている(藩の借財高一覧表掲載)。これら藩の窮状は、藩の御用達、有力農民や一般農民にまで影響を与え、更には家中の者に対する給料の借上げを行っている。給料の減額で家中の生活は一層厳しく質屋通いをする者、一家離散や士の身分を棄てる者もでたと記録されている。また、前橋分領内においては社倉穀積の再興が徹底し、領民に若干明るい兆が見えた様子が窺える。今日の経済状況を思わせる記録である。 |
第22巻 天保戊戌9年4月〜天保庚子11年3月 江戸幕府では天保8年家斉から家慶への将軍代替わりがあったため、前橋分領内にも巡見使が派遣された。根利村をはじめ、違作による飢饉・困窮者へ援助。 |
第23巻 天保庚子11年10月〜天保壬寅13年12月 天保11年11月1日付、藩主斉典は出羽国庄内14万石に転封を命ぜられる。しかし、庄内農民の激しい反対運動、大御所徳川家斉の卒去、松平斉典の養子紀五郎斉省が死去した等の諸情勢により天保12年7月12日付で所替えは突如中止となる。 |
第24巻 天保癸卯14年正月〜弘化乙巳2年12月 幕府は天保13年7月、異国船無二念打払令を廃し、薪水や食糧を供給することとした。川越藩(藩主松平斉典)は、相模沿岸の警固を江戸城白書院で仰せつけられる。 |
第25巻 弘化丙午3年正月〜嘉永辛亥4年12月 藩では引続き江戸湾警備に追われる時期、斉典が嘉永2年11月5日享年53歳で逝去。実子誠丸に家督17万石を相続した。民政では間引きの抑制と人口増をめざした赤子養育資金として蚕積金制度を開始、農村の復興に当たった。 |
第26巻 嘉永辛子5年正月〜万延庚申元年12月 (安政3〜7年は欠本) 嘉永6年6月、浦賀にぺリー来航。前橋藩には、内海一の台場の警備が命ぜられた。また前橋郡・町在奉行として利根川改修や民政に尽力した安井与左衛門が没している。安政になると、広瀬川、端気川の舟運が許可され、三川河岸がにぎわった。安政5年5月、利根川に架橋、万代橋と名付けられた。 |
第27巻 万延辛酉2年正月〜文久辛戌2年3月 万延元年3月3日、桜田門外で大老井伊直弼が水戸浪士に襲撃、殺害されるという事件が発生。文久元年11月1日には、皇女和宮の徳川家茂への降嫁が公表された。水戸藩浪士の取り締まりが幕府より命ぜられ、前橋陣屋でもこれに対応している。横浜開港は、一部の生糸商人たちを潤したが、庶民は物価高に苦しんだ時代であった。 |
第28巻 文久壬戌2年4月〜文久癸亥3年4月 御築城別記録(文久二年十二月〜慶応二年四月) 公武合体と尊攘派の対立が激しくなり寺田屋事件が発生。また参勤交代制がゆるみ、大名の妻子が国元に帰ることとなり、藩では手狭な川越でなく前橋を城地に選定した。 前橋では生糸商人らを中心とする町内有志から多額の献金があり、城再築の機運が高まっていった。文久3年12月20日ついに幕府より正式な築城許可が下付された。口絵に掲載の「御築城御免状」(市立図書館所蔵)がそれである。 |
第29巻 文久癸亥3年5月〜同年12月 幕末の激動の中、藩主直克は「政治総裁職(従来の大老職)」に任命された。将軍を補佐し難局にあたる重要任務である。直克は公武協調を説いて活躍し、従四位下侍従大和守となった。 一方藩では、川越の城地が狭いため、前君(典則公)の住居を前橋に建設することとなり、家臣たちの移動が始まっていた。前橋では5月から新しい前橋城の建設が始まっていたが、文久3年12月、ついに幕府から正式な許可がおりた。川越から移動してきた家臣たちの住居の割当はたいへん苦労したらしく、籤も用いられた。29巻巻末には、所在地と家臣数の一覧表も掲載されている。 |
第30巻 文久甲子4年正月〜元治元年8月 文久4年3月、尊攘派の水戸藩士たちは筑波山に蜂起し、それはやがて関東一円を舞台とする「天狗党の乱」へと拡大していった。前橋でも、五料の関所をはじめ、大渡、真正、福島の各番所へ増員し厳重な警戒を指示している。6月には池田屋事件、7月には蛤御門の変が起こり京都は火の海となる。元治元年8月、前橋藩に二之台場と五之台場の警備の命令が下った。 一方、前橋では城の再築が進められていた。直克は「各所に国力を分けているのは良くない。一日も早く前橋へ引き移れるよう」と工事を急がせている。それはまさに前橋の町を挙げての大工事であった。用材は根利から切り出され、川を使って前橋まで届けられた。物珍しさに婦人や子どもたちの見物が多く、妨げになるのでこれらを規制したという。その工事資金は前橋の人々の莫大な寄付であった。こうして前橋は99年間の空白を乗り越え、再び城が築かれてにぎわいをとり戻していくのであった。 |
第31巻 元治甲子元年9月〜元治乙丑2年2月 元治元年9月、幕府は米、英、仏、蘭4か国の代表と、下関事件(元治元年8月、上記4か国の連合艦隊が下関海峡で長州藩の砲台を砲撃、陥落させた事件)における賠償に関する協定を締結。日本はまったなしに国際社会の渦の中に引きずり込まれようとしていた。藩主直克は、横浜鎖港問題のもつれから政治総裁職を解かれ、幕政から遠ざかっていたが、8月には再び内海二之台場、五之台場警備を命ぜられる。前橋では三の丸に前君典則公(静寿斎)の住居が完成。家臣の移動の際の荷物の輸送は中山道や、利根川、広瀬川の舟運が利用された。この年には約500名前後の家臣がそろい、前橋の地が約百年ぶりに城地として整備された。なお、本巻のほとんどを占める記事は天狗党の乱である。 |
第32巻 元治乙丑2年3月〜慶応乙丑元年6月 幕政から遠ざかり謹慎生活を続けていた領主直克は家康公250回忌による恩赦により登城が許可された。再築前橋城の外郭工事がほぼ終了。城の竣工を待たずに元治元年から500名前後の家臣が前橋に在住したと考えられ、城内の下級家臣の住居は手抜き工事が多く、改善が要求され、前橋の空っ風の強さと寒さに家臣も驚かされる。前橋に引っ越した家臣には武術・門弟稽古を盛んに奨励したが、城内外での稽古場が不足し、諸流稽古場として文武館・学問所の建設が計画された。 |
第33巻 慶応乙丑元年7月〜慶応乙丑元年11月 この時期、第二次長州征討や英仏米蘭の四カ国連合艦隊の兵庫沖来航、米価の騰貴など不安定な国内情勢が続くなか、領主直克は幕政から遠のき藩政に専念した。前橋城再築は土居・堀がほぼ完成し、本丸の御殿建設が起工され、家臣の川越からの移住も大方完了した。 |
第34巻 慶応乙丑元年12月〜慶応丙寅2年4月 領主直克の体調がすぐれず、慶応2年元旦の江戸城登城は使者をもって行った。また幕府から京都警備のため上京命令があったが、長旅は不可能なため、上京免除を願い出て了承された。前橋城再築は着々と工事が進み、慶応2年6月に本丸本殿の上棟式が執り行われる運びとなった。 |
第35巻 慶応丙寅2年5月〜慶応丙寅2年9月 5月7日#相院(典則公長女)の一周忌法事に当り、龍海院で茶の湯が行われ、#相院の墓所地代として15両と25両が龍海院へ寄附された。6月中旬には米価をめぐり武州一揆が発生。7月20日には第14代将軍徳川家茂が大阪城で急死し、徳川慶喜の宗家相続が公布された。家茂の遺骸は大阪城より船で品川に着き、昭徳院殿と謚名され、増上寺へ葬送された。 #・・・おんなへんに卓 |
第36巻 慶応丙寅2年10月〜慶応丁卯3年9月 幕府は凶作による米価騰貴のため、外国米の購入販売を許可。慶応2年12月5日徳川慶喜が征夷大将軍・内大臣に任ぜられる。12月25日には孝明天皇が薨去され、翌年1月9日睦仁親王(祐宮)が践祚(明治天皇)関白二条斉敬を摂政とした。また慶応2年11月30日に再築前橋城本丸本殿の建築が完了し、12月7日に竣工祝いが行われた。翌年3月1日川越城の引き渡しが決定し、実質的に領主松平大和守直克が前橋城主となった。6月1日領主直克と幸姫婚姻祝儀が溜池の上屋敷で執り行われ、幸姫は「御前様」と称することとなった。 |
第37巻 慶応丁卯3年10月〜明治戊辰元年9月(内局) 慶応3年中「御側役記録」 第15代将軍徳川慶喜は慶応3年10月14日に大政奉還を朝廷に申し出て、翌15日に勅許を受けた。12月9日には王政復古の大号令が発せられ、有栖川宮熾仁親王が総裁となり世の中が討幕へと大転換していった。翌年3月14日に天皇の五か条の御誓文が誓約され、4月11日江戸城が開城となった。7月17日には江戸を東京と改称し、9月8日に明治と改元した。 前橋藩も徳川幕府の崩壊と社会の混乱に巻き込まれ多事多難を極め、続出する緊急非常事態に対し藩をあげて難局に対処した。 |
第38巻 明治戊辰元年11月〜12月 慶応3年12月9日の王政復古の大号令により誕生した新政権は、列強の圧力に対抗するとともに、「御一新」の理念を掲げて国内の改革を進めていった。 王政復古という形で天皇に政権が戻り、諸藩がもっていた権力を一つにまとめる根拠となった。版籍奉還により、新政府は旧藩主を改め松平大和守直克は前橋藩知事に任命され、新政府天皇政権下の地方官となった。大名(藩主)の世襲による領地支配が廃止され、藩知事は地方官として政府の直轄する地方行政組織の中に組み込まれていった。 |
第39巻 明治己巳2年6月〜明治辛未4年7月 明治2年直克は藩知事に任じられたが、病気のため8月富山藩知県事の前田利同の弟直方を養子に迎え、致至して家督を譲った。明治3年前橋藩は器械製糸所設立のため、スイス人技師C・ミューラーの雇い入れを決定し、前橋細ヶ沢町に六人繰りの前橋藩営の器械製糸所が設立され、前橋は生糸の町となった。また、平民の苗字を使用することが許可された。明治4年には戸籍法が定められ、7月14日在京56藩の知藩事が召集され廃藩置県の詔書が発布された。11月には府県行政の基準となる県治条例(府県制)が制定され、分権的な藩体制の最終的な解体となり、中央集権機構の下で全国が統一的に支配される国家が成立した。 |
第40巻 寛延己巳2年正月〜明治辛未4年7月 本巻は総集編として、第一巻から第三十九巻までの各巻解説、附録資料として前橋藩主一覧、阿久津宗二氏による前橋城址之碑、安井與左衛門功績碑、再築前橋城本殿棟札の読みと解説、松平直克夫人幸に関する記述、寛延元年(1748)から明治五年(1872)までの前橋藩の動向と国内の動静に関する年表等を収録し、前橋藩松平家記録の概要が簡便に理解参照できる構成となっている。 |
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